★「安田純平」報道から考える日本の絶望的なマスメディア&日本の残念なマスコミ 報道価値と歪んだ放送★

 

安田純平氏の報道に違和感がある。中でもテレビ(放送局)の報道が見るに堪えないくらいに酷い。先に結論を述べると,本事件に「ニュースバリュー」はない。つまり「報道価値」がないと考える。そして、トップニュースとして扱う対象であるか? 否、違うと私は主張したい。つまり,時間を割いて大仰に報道する価値があるネタではないのだ。本件は、日本のマスメディア(マスコミ)の異常さを赤裸々に示す報道になっていると考えているので考察することとしたい。

 

安田純平事件の事実は簡潔にまとめられる。

「2015年5月頃にシリアで誘拐(されたとして)拘束(されてたとしていた)日本のフリージャーナリストである安田純平氏が、2018年10月に解放(さてたとして)トルコ政府に保護された。そして日本に帰国した。」

 

安田氏がおそらく誘拐されていただろうこと、解放されたことが事実であり、淡々と報道すれば良い。そして危険地域への立ち入りは控えるようにと政府の見解を伝えるなり、メディアの役割として注意喚起すれば良いだろう。なぜならば、他に類似する事件が起きては皆が困る。そして、安田氏程度の人物でも日本は金を払って救うのだとテロリストに認識されれば、日本の旅行者の多くがターゲットになりかねない。

 

にも関わらず、日本の大手メディアは、公共の電波を使って安田氏解放を大騒ぎして報道している。ニュースバリューの付け方に大いに疑問がある。ニュース番組からワイドショーまで大事件のように大騒ぎして報道する放送局。

 

おそらくまともなビジネスパーソンはテレビなんてほとんど見ないだろうが、低品質な報道を毎日しているのが日本の放送局であり、彼を擁護する者と罵倒しあう者で賑わっているのが、ネットメディアとSNS。ガセネタだろうが、マッチポンプだろうが、PVがあればあるだけ稼げる現実において、安田純平氏の意図と広告会社の掌の上で踊らされているのではないだろうか?

 

私はどこへ行くのも本人の自由であると思っている。それでも、他人に迷惑をかける行動は控えるべきであるとも考えている。つまりは、日本の外務省が「退避勧告」を出し、渡航は止めてください。退避してください。として最大限の危険情報を発信している国(地域)にプライベートな理由で赴き,誘拐された人間の選択は自業自得ではないか? という自己責任論に近い。

 

彼が公務員であったり、企業の業務中に誘拐されたということであったならば、日本政府や関係者が全力で尽くすべきであるが、今回の事件は完全に個人のプライベートな出来事である。そして、毎年、海外邦人援護件数が1万件以上ある中で、安田氏の件を大事件のように報道する馬鹿馬鹿しさ。日本の先進国最底辺の取材と報道力。

 

確かに、日本人が誘拐されて拘束されていたということに対し、日本政府だけではなくカタール政府など、多くの関係者の尽力により解放されて無事に帰国したことは喜ばしいことであると思う。日本の旅券(パスポート)は凄い。絶大なる信頼性である。

 

一方で、安田純平氏を肯定したり、ましてや英雄視したりするような報道には心底違和感を覚える。安田純平氏への誹謗中傷や事実関係が不明確な情報を抜きにしても、彼の従来からの言動を少し確認すれば、結構な問題を抱えた人物である可能性が高く、公共電波で大々的に放送して宣伝する対象であるとはとても思えない(というか表に出せない危険人物ではないか?)。

 

だから「安田純平」報道に時間を割くことは愚かであると思う。NEWSは事実を淡々と伝えるだけで良い。世の中には別に伝えるべき事件で溢れており、報道しなければならない情報があると考えて「安田純平」ネタにフォーカスしないと考える放送局があっても良さそうなものであるが、すべての放送局が大々的に放送して続報に毎日多大な時間が費やされている。

 

オウム真理教の宣伝に加担した失態をテレビ局は欠片も反省していないのだろう。例えばマスコミは相模原障害者施設殺傷事件を触りたくないからほとんど無視した。ジャーナリズム精神など欠片もなくて、ヤバい対象でもウケると思えば話題にするし面倒臭いと思えば関わらない。放送局にとって都合の悪いことは報道しない。実にわかりやすい自己都合である。低品質な報道が既得権益で稼いでいる。嫌な社会だ。

 

しかし、これは私の考え方であり、他人に価値観を強要するつもりはない。安田純平氏を肯定するのも否定するのもそれぞれの価値観であり、とやかく言うつもりはない。ただし事実として、安田純平氏テレビで放送されることにより絶大なネームバリューを得たわけだ。

 

私は単純に「安田純平」は報道するに値しないネタであると主張したいのである。それを日本のマスメディアは大騒ぎで伝えている。安田純平氏は危険地域に赴き誘拐されたが解放された。これだけのことで彼を英雄視したり、配偶者がトップニュースに登場したり、彼の行動の是非を大騒ぎするのは時間と電波の無駄であると声を大にして言いたい。

 

私は日本のマスメディアは腐っているという問題意識を持っている。特に放送局が酷い。だから私は日本の民放はテレビ東京とイッテQ以外は自発的には見ない。

 

これは好き嫌いの問題でもあるので、テレビを否定するとか、テレビを好きな人を馬鹿にする意図はない。またバラエティ番組が好きな方にとっては、無料で笑いを提供してくれるテレビは素晴らしい娯楽であろうし、多くの方にとって欠かすことのできない相棒であるだろう。そして、テレビの役割や絶大な影響力は認識している。

 

しかし、日本の報道は見るに堪えない。ニュースバリューの考え方から報道の姿勢、報道の内容に至るまで、すべてが恣意的で質が低いと考えるからである。私はずっと昔から、報道は事実報道と解釈報道は分けるべきであると考えている。

  • ①事実を述べる。
  • ②事実に基づいて出来るだけ偏らないように解説を述べる(教科書のように)。
  • ③解釈を付け加えたければ意見や主張であることを表明した上で述べる。

これだけのことなのに、日本の放送局にはできない。ニュース報道として恣意的な解釈や意見を挟む。実に由々しき事態であると思う。

 

本来であれば、テレビ放送というのは、映像+音声で情報を伝えられるという素晴らしい手段であり、新聞の活字だけの情報に対して、情報発信において遥かに優位性を持っている媒体であるはずなのに、日本では報道の情報量が悪い方向にレバレッジされている。

 

一番わかりやすい例えで言えば、戦争の悲惨さを本で読む、つまりは活字情報として得るよりも「映像の世紀」(NHK)を見た方が情報量が圧倒的であり、伝わるインパクトも絶大であろう。※念のため、私は本と読書を何よりも愛しており、映像が本よりも優れているなどと言うつもりは一切ない。映像の情報量は本来であれば圧倒的なポテンシャルを持っていることの説明である。

 

事実を補足する情報を映像と音声で伝えるべきなのに、事実に解釈を勝手に加えて放送するのが実に気持ち悪い。日本の報道の歪さは、私がチープな表現力でどれだけ説明しても伝わりづらいと考えるので、島耕作のワンシーンをご紹介して代えることとしたい。核心をついた素晴らしい指摘であると思う。

 

 

最後に日本の放送局の何が問題なのか? について私論を述べて問題提起することとしたい。「量は質に勝る」つまり、日本は放送局が少なく、放送番組が少なく、結果、放送コンテンツが少ない。これですべてが説明できると考える。

 

具体的にはテレビのチャンネル数が先進国最低水準であるのが問題なのだ。これが諸悪の根源としてあると考えている。日本のテレビジョン放送局、つまり、日本のテレビ局は公共放送のNHKと5局の地上波民放キー局しか基本的にはない。

 

度し難いことに特定の放送局を視聴できない地域もたくさんある。沖縄県には日本テレビ系列局が存在しないし、東北や四国など民放5局でさえ視聴できない都市が多数存在する。テレビ東京系列が映らない地域はざらにある。

 

単純な事実として、テレビのリモコンに印字されている12の数字から、選択して視聴できるのは半分程度。日本ではテレビジョン放送に選択肢が少ない。これは先進国で最低レベルであり、限られた放送局が絶大的な既得権益として日本の放送電波を牛耳っている。国民は限られた選択肢の中からテレビ放送を選んでいることが絶望的な現実としてある。

 

これの何が問題なのか? 物凄く単純な算数である。日本の放送局が5つ。1時間に1番組を放送すると仮定して24番組。24番組×5放送局=120コンテンツ。視聴可能なコンテンツは最大で120番組/日である。

 

一方でアメリカは都市によっても異なるが、10以上の放送局から40チャンネル以上の放送を視聴可能である。24番組×40チャンネル=960コンテンツ。アメリカで視聴可能なコンテンツは960番組/日以上。日本の10倍程度の選択肢がある。

 

アメリカは日本のような完全無料の地上波とはビジネスモデルが異なるので、一概には比較できないという意見もあろうが、アメリカ国民の60%以上がケーブルテレビに加入してテレビ番組を視聴しているというエビデンスがあり、アメリカではテレビ番組選択の機会が多いと断言して差し支えないだろう。

 

これは何もアメリカに限った話ではなく、欧州各国と比べても日本のテレビ視聴の選択肢の少なさは際立っている。テレビに選択肢が少ないのだ。日本がIT途上国と呼ばれるようになって久しいけれども、日本中流層の総情報弱者化の根本的な要因はテレビ放送にあると考えている。

 

テレビ局によってスクリーニングされた情報、つまり限定された情報しかテレビで視聴することができない。日本には世界の先進国には当たり前のようにあるニュース専門放送局がなく、テレビ欄をご覧になっていただければ一目瞭然であるが、バラエティ番組ばかり。ジャーナリズムは片手間であり、バラエティ番組が中心である。

 

国(政府)が携帯料金が他国と比べて高いと指摘しているけれども、電波オークションを実施せず、日本の貴重な電波を一部の企業が独占していることこそが日本の大問題ではなかろうか? 全盛期のホリエモンでさえ放送利権は崩せなかった。絶大な権力の闇。

 

既得権益が守られる悪影響は、ソフトバンクの孫正義社長が指摘した通り「日本でライドシェア(相乗り)サービスが禁止されていることについて「こんなばかな国がいまだにあるということが、僕には信じられない」と述べ、国の対応を痛烈に批判した。ことにも近い。

 

誰が損をしているのか? 既得権益が守られ、国民(消費者)が馬鹿を見るのである。便利であったり選択の機会が多いことは利用者にとって望ましいことであり、それが規制されている現実は歪んでいる。日本の報道は、検閲された情報しか放送されない中国を非難したり馬鹿にできない酷さであると思う。

 

今回の「安田純平」氏の報道から日本の放送局はおかしいという点が改めて問題視されるようになったけれども、問題はコンテンツの中身ではなく(株式会社の目的は利潤の追求であり公平性なんて期待するだけ無駄)、コンテンツの量であり、日本の貴重な電波が既得権益に独占されている異常さを指摘して終わることとしたい。

 

最後までご覧いただき、ありがとうございました。

 

 

(追記)そもそも論として、安田純平氏が実施したシリアの取材や報道に価値があったのか? を考えると非常に疑問である。例えば彼がスクープを得たことがあるジャーナリストであるとか、彼のオリジナルの取材がシリア取材や中東取材に欠かせないというのであれば、彼を評価するのはわかる。しかし、それが日本のメディアにはない。

 

日本のマスメディアの問題は、定量評価せずに、感覚的にニュースバリューを評価することにあり、取材力と検証力が絶望的に欠けているのが危機的であると考える。世界ではフェイクニュースが問題になっているけれども、日本はフェイクニュースを発信する段階以前にあり、報道を感想として発信することの決別から改善されて欲しいと願って止まない。

 

シリアに関連する価値ある情報を紹介しておく。

 

→シリアの内戦はなぜ解決しないのですか?

 

→シリア内戦(Wikipedia)

 


 

(追記)天安門事件のルポルタージュ「八九六四」の著作で有名な安田峰俊氏(ノンフィクションライター)が安田純平氏について記事にされていたので紹介することとしたい。とてもフェアに綴られておりオススメである。(→安田純平氏へのバッシング、いちジャーナリストとして思うこと

 

安田純平氏への見解は、テレビ放送の諸手を挙げた肯定も、ネットメディアのディスり具合も酷いことになっているので、このような定量的な評価の視点は素晴らしいと思う。安田峰俊氏の著作に見られる優しさが滲み出ているのも良い。

 

それでも安田純平氏の報道にニュースバリューはないと私が考えるのは冒頭に記した通りであり、流石にテレビ放送もバツが悪いと思ったのか報道量はトーンダウンしている。

 

事実報道をするのではなく、主義主張報道をするから視聴者からの反感を招くのであり、安田峰俊氏のような定量的な評価+自己主張を述べるという姿勢を高く評価したい。そしてそのような報道や記事が増えて欲しいと願っている。